小学校5年生の時、祖父が亡くなりました。

 

夏休み真っ只中の、ある日の朝。

「おじいちゃんが死んじゃった」

泣きながら私を揺すり起こした姉の声とともに

私は”死”というものを、初めて身近に感じました。

 

頑固で意地っ張りな祖父。

手術や入院生活で心身ともに辛い状態だったはずですが

私たちがお見舞いにいくと、絶対に身体を起こして

弱った姿を見せようとはしませんでした。

 

そんな祖父だったので、

「私たちが泣くことを嫌がるだろう」と

泣かないことが”強い”ことであると

当時11歳の私は、そう思っていました。

 

だから、

お葬式で大人のみんなが泣いていても

姉がお別れの手紙を読んでいる時も

私は絶対に、悲しくても、涙は流しませんでした。

 

 

 

年をとると涙もろくなる、なんて言いますね。

それがいったいどんな原理なのか、

本当のところはわからないのですが。

 

あの時、流せなかった涙を

今、流しているのかもな、って思うんです。

 

宿題を忘れて居残りしているような

単位を落として再履修しているような

学生時代ならば、それはもう絶望的な響きですが…

 

我慢して耐えて”強がる”こととは違う

悲しみを受け入れる”強さ”をくれるのが、涙のやり直し。

(もちろん宿題も単位も、忘れたものはやらなければいけません…)

 

祖父のことも、その他のことでも、

強がって塞き止めてきた涙は

それを受け入れる強さと一緒に流れてくる。

 

だから

どうしてこんなにって思うことでも

特別な理由があるわけではなくても

私はただ、泣きたいままに、涙を流します。

 

雫